立屋城址をたたえて

立屋城址をたたえて(表紙)

立屋城址をたたえて(表紙)

立屋城址をたたえて(見取り図)

立屋城址をたたえて(見取り図)

立屋城址は、小川村の南方信州新町に境し、海抜八百七米の山稜に位し、風光明媚眺望に富み、東に川中島平、南に浅間山、菅平、西に筏ケ原に重なる飛騨の連山、北に虫蔵戸隠の険を、また土尻川のせせらぎを挟んで古山城址、馬曲城址、真那板城址等を一望眼下に収めている。
 本丸あとには秋葉、鹿島の両社を合祀し、三間半×四間半の古い拝殿が建っていて、ほかに三峯社まり、明治中期までは樹齢二百年以上の老松がうっ蒼と繁り、春秋の祭典には三反と五反幟りが二基はためき、立屋の神楽に頭が奉納され、ときには草相撲や草競馬もあったという。
巨大な御神木も、相次ぐ落雷等によって一本二本と姿を消し、戦後まで二本の大木が残っていたが、遂に姿を消してしまった。

 また、尾根伝いに大町峯街道、糸魚川街道、善光寺街道、戸隠街道と四大道路の交差点で、産業文化のうえからも重要な処であった。明治初年までは、立屋口留番所がおかれ、歩荷宿、茶屋、居酒屋等もあった。国土地理院の三等三角点もここにある。

 立屋城址に武田軍が進出したのは、遠く天文二十年前後であったと伝えられている。武田の軍勢が安曇の諸城を落とし、小川城や立屋城に迫ったのは、村上義清氏を追って、北信濃制覇を一挙に実現しようとした戦略の一環であった。立屋城址は、交通の要衝であると同時に戦略上の要地でもあって、東から南にかけては、急峻な天然の要塞をなし、西北面も比較的守りよい地形を保ち、当時の山城としては恰好の地であったに相違ない。然し、城に対する文献等も見当たらず、地名や伝承によって不確実中の確実を見出したいと考えたのであるが、一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝うことを恐れるがるが故に、これを後世の研究に託したいと希うばかりである。

 まず、字名には古城平、城の平、凧揚場があり、地名には三ヶ月後、濠尻、前濠、陣平、旗塚、隠し穴等がある。本丸は八間×十間のものがあったといわれ、城主は吉池豊後守との口碑もあるが、定かなものはない。

 更にこれとは別に城西の丘に古城があったと伝えられる。これは、立屋氏の居城ではないかと考えられる。立屋氏は、室町時代の永享十二年結城陣番帳にその名がみえていることから、その年代により百十数年前になる。立屋の地名がこの立屋氏の居城によって名付けられたか、或は、立屋または立矢という古事伝唱から立屋氏がその称号にしたのかは考えても興味あることである。
立屋氏は武田の進出によって、大日方氏と共に武田に属しその知行地は水内郡の桜、小鍋、上野、入山、北山の各郷に及び、その陣営内では、善光寺西の葛山城の守備衆に名がでているという。

 さてまた、立屋城に還って三ヶ月濠の地名を遺すからには、疾きこと風の如き武田軍がこの地に怒涛の如く押し寄せ、当時深刻な対応をせまられたものであろう。この詩は、勿論その時点を想定したもであるが、やがて大日方氏と連繋し、武田大日方の勢力圏が強大になり、川中島へと集中したのである。武田進出から凡そ十年永禄七年戸隠一山の僧坊七十余名が城懐の隠れ凹地岩下坊場の地に逃れてきたのも、これが案内役をしたと伝えられる立屋の斧ェ門にしても、強大な武田、大日方武田団の庇護があったればこそと思う。戸隠衆からみれば、戦国の世にも揺らぐことのない安住の地だttに相違ない。

 故きを温ねて新しきを知るというが、気楽な昔話の一節といても、立屋にこんなことがあったのかと先人の足跡を温ねてみたい。この地に育って七十年、ただ白髪の一老人が不確実な憶いを僭越と思うばかりである。碑を掘るに当たっては、立屋城址顕彰鞋の一致したご賛同と村教育委員会、村内有職者特に松本史、松沢一夫両先生のご指導、坂井石材店の誠実な施工、丸山、高木両社のご支援の賜ものであってここに深甚なる敬意を表する。更にこれを機会に立屋城址が永く大切に保存され、研究されるよう、お願い申し上げる次第である。
                         昭和六十一年

                      立屋城址顕彰会  和田 勝

  付録  
     立屋の詩

一 立屋古城の丘のうえ あき月高くすみわたる 名残のあとか立屋氏の 土の香りに生命あり

二 三ヶ月濠に名もたかき 立屋の城は天文の 馬蹄に残る陣平 風揚ぐ峠風なごむ

三 蕗のとういず坊城に 大洞超えし祇乗坊 七十余僧引ぐして 迎いし名主斧右ェ門

四 いまも残れる種が池 泉光院や経塚と 飯縄山にたたずめば 筏三院風光る

五 世は元禄の旅修行 法力こめし手勢鉾 祈りに生きし天龍海 生きて浄土の杉立ちぬ

六 天をつきたる天白の 大杉消えて百年か 歩荷の路も語り草 馬ひく峯の大街道

七 松代とう治の一よくを 荷う峠の大番所 旅行く人の膝のあと 乱れて咲くや小金草

八 立屋に建ちし学び舎は 明治初年の中等校 文化の香りいやたかく 多くの人を送りしか

九 やき畑起し粟を蒔き かよわく白き蕎麦の花 命をつなぐ麻の糸 きびしく生きし住古人

十 いまは文化の桜花 散るをも惜しきみよの春 老いも若きも楽しめる 山里なれど懐しき

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