松代藩主真田信之は「人改め」と「物資改め」のため藩内20箇所に口留番所を設置しました。当時立屋は、善光寺に通じる大町街道と戸隠〜麻積宿を結ぶ道が交差する要衝の地であり、1649(慶安2)年、椿峰村に立屋口留番所が設けられました。 番役人として、松代藩家老・鈴木右近の子、八右衛門が派遣され、以降7代目八右衛門まで続きました。1872(明治5)年、番所制度が廃止されましたが、今もなおその面影を残しています。