年表
◆戸隠三院が来る(小根山分校開校百周年記念誌もりきっ子より)
戦国時代の争乱の中で、ここ小川の筏ヶ峰(いかだみね)に戸隠三院が引っ越してきた。これについては、「筏ヶ峰戸隠三院 旧跡の由来」に大略が出ている。
「戦国時代のことである (戦国の武将は神社・仏閣との結びつきを非常に重視したようである)。 戸隠は元来越後の味方であった。弘治三年二月武田軍は、越後方の葛山城(いまの長野市芋井) を攻略し、その勢いに乗じて戸隠を侵略した。
戸隠三院の衆徒は難を越後に避けたが、 その年の春上杉謙信が信濃に出馬し勢力が回復したので、六月越後から帰山した。
永禄元年には戸隠が武田方に属したので、武田信玄は中院に祈願状を奉納して、 信濃一国掌握を祈請した。
永禄二年六月上杉勢は兵を出して戸隠を侵略した。この時三院の衆徒は敵することができず、鬼無里や小川の山中に一時避難した。
其後信玄が徐々に其勢を北信濃に伸ばして来たので、戸隠に帰山した。然るに永禄七年八月上杉勢が再び出軍したので、戸隠の祇乗坊松井真祐は戸隠霊場が甲越相争のために侵されることを憂えて、同志七十余人と共に当時武田方で頗る勢力のあった大日方氏の庇護を受け得る小川の筏峰に地形を選んで、戸隠山の様式を悉く移し真似て三院を勧請し奉仕した。
玆に筏峰小戸隠ができたのである。
而して武田・織田の二氏共に滅びて後、上杉景勝北信濃を領し、文禄三年戸隠の荒廃していることを憂え、三院を復元造営して、三院の衆徒は帰山した。 その間実に三十年。」
永禄四年(一五六一)には有名な川中島の激戦があり、武田と上杉の勢力が北信濃で一進一退を続けていた。北信濃に勢力をふるっていた村上氏は武田に追われて上杉につき、村上氏を盟主と仰いでいた西山一帯の有力者春日虎綱(高坂弾正)や、またその配下とされる大日方氏も、早く
から武田方について川中島の戦いに参加していたようである。在地領主は相争うどちらの戦国大名についたら有利かと形勢を観望し、合戦には常に自己の所領支配を賭けて参加していたのである。
武田信玄は天下を取ろうと、たびたび三河(愛知県)方面に出兵したが、信濃の武士たちも大勢参加した。しかし天正元年(一五七三)には信玄が死に、武田勝頼は天正三年に三河長篠で織田信長、徳川家康の連合軍と戦って大敗した。一方上杉謙信も天正六年に死に、景勝があとをつぐ。
北信濃は混乱したが、天正十年(一五八二)に勝頼が敗死して武田氏がほろぶと、信州へ織田信長勢が侵入し、ついで豊臣秀吉の政権のもとで上杉景勝が北信濃一帯を領有するようになる。
「歴代古案」という文書に次のようなものがある。
「近年被拘来知行之儀者不及申、其上忠信之間、為新知、小根山七百貫文出置之候、然間、如何様之者横合候共、不可有相違者也、仍如件、
天正十年七月二五日
景勝
大室左衛門尉殿」
(『信濃史料』)
この文書はいろいろなことを教えてくれる。武田氏がほろびた同じ年(天正十年=一五八二)に上杉景勝が直ちに北信濃に入り、部下に領地を分けた。 小根山の地は大室左衛門尉に新知として与えられたが、七百貫文の土地であったことがわかる。また小根山が一つの所領単位として扱われており、前にあげた文書でも見られるように、はっきりと小根山が単独の地域として成立していたことがわかる。
天正十年本能寺の変後、豊臣秀吉がほぼ天下をにぎると南北朝以来の戦乱はおさまり、北信濃も上杉の支配下でおちつきをみせてきた。そんな中で文禄三年(一五九四) 上杉景勝の要請により戸隠三院は旧地に帰ることができたのである。この三十年の間に、はじめ七十余とも八十余ともいわれた坊は五十三に減っていた。筏ヶ峰に移ったばかりのときは武田氏の援助もあり、かなり立派だったらしいが、一山は戦乱で荒廃して、勢力が弱まった。
その後も戸隠三院跡に灯明番を残し年々祭祀を行なっていたらしいが、のち明治四十一年小川神社に合祀されてその跡だけが残っている。
小根山のこの地に戸隠三院が来たのは、武将の勢力関係や地理的なものもあろうが、その昔にこの地方が戸隠山の支配下にあった庄園だったこともいくらかは影響しているのではないだろうか。