筏ヶ原遺跡
=小川村史より==
筏ヶ原遺跡は筏の沼附近一帯の地域である。縄文式時代の遺跡として、小川村最大の遺跡である。下北尾遺跡・成就遺跡と共に小川村三大遺跡の筆頭に数うべきものである。
大正末期から昭和の初期にかけて故坂井典敏先生や中条小学校訓導金井喜久一郎氏(現信濃史料編参纂委員)等により調査され広く紹介されたものである。遺物は坂井典敏先生のお宅や南小学校に完全な形のものや貴重なものが沢山所蔵されていたが、不幸にも両方共火災で焼失してしまった。かえすがえすも残念である。金井氏の収集したものは現在も中条小学校に沢山所蔵されている。
その後多くの人によって発掘されたが、興味本位で、学究的配慮がなされないままに、雑然と乱掘された結果遺跡は荒らされたばかりでなく、その整理も正しく行われなかったので完全なものは一個もない。もう少し注意深く発掘して整理すれば完全な形に復元出来た素晴らしいものが幾らでもあった筈である。今後この反省に立って対処することが緊要である。埋蔵文化財保護法は、みだりに発掘することを禁じている。法の規定を待つまでもなく、速やかに保護対策を講ずることが緊急である。
この稿を書く以前に学術的発掘調査が要請されたのであるが、村の事情でそれができなかったが、一日も早くその実施を期待している。
石器には石鏃、打製石斧、磨製石斧、石(せき)錐(つい)(いしきり)、石(せき)匙(び)(いしさじ)、磨(すり)石、砥(と)石などが出ている。
石鏃、打製石斧のことは下北尾遺跡の稿で述べた。磨製石斧はとぎ磨いて造った石斧で、10センチメートル位の定角式のものと、3.4センチメートルの小型のものとある。前者は柄を付けて木を伐ったり削ったりしたものであろう。後者は実用品ではなく装飾品か、一種の宝物と思われる。石錐は石のきりで、先端は細長く尖り、柄はつまみが出来ていて、ちょうど石鏃の先きを長くしたような形をしている。皮へ穴をあける時などに使われたものであろう。石匙は俗に皮はぎとも呼ばれ、動物の皮をはがしたり、肉を調理したり、ナイフに使われたのである。磨石は扁平な自然石でたたいたり、すりつぶしたりするに用いたのである。砥石は他の石をといだりしたものであろう。
土器には縄文式前期(神ノ木式・南大原式)、中期初頭型式のものから中期(勝坂氏・加曽利E式)のもの、後期のものもあるが、中期のものが特に多い。
つぼに釣手の付いた土器や、つぼの取手に豪壮な文様の付けたものや、土偶など貴重なものが沢山ある。土偶は女性を形どったもので乳房と腹部が誇張された妊婦の形を表している。女神信仰乃至子孫繁栄を祈願したものであろう。
この筏が原の地には縄文前期時代に人類が住みつき縄文中期には集落も大部大きくなったことは遺物の豊富な事がこれを物語っている。
しかし後期も過ぎると、下北尾遺跡と同じく、もう人っ子一人いないジャングルになってしまったのである。遺物は小川村公民館、中条小学校、松本健弘氏宅などに保管されている。