立屋無駄言話

立屋無駄言話 和田勝著

 立屋という部落はいつ頃できたであろうか。それは遠い昔のことである。
小河の庄内の立屋であったようである。戸隠院坊の因起は古いが、その勢力は強く、平維網も乱にも大法師増證の名が見られる。
これはおそらく戸隠院の大法師で小河庄の支配に院からの委任を受けていてものであろうと小林一郎先生も言われた。鳥羽院公文は天養二年七月九日(一一四二)この地方最古の文献と言われる。
立屋古老の話によると遠い昔小河戸隠分院があったという。今も顕光寺跡という丸塚があり種ヶ池、經塚が小立屋の上にあり、更にその上には飯縄社を祀った飯縄山もあり、戸隠院に対峙した池にある。この小立屋は古立屋という人もある。
その後永禄の戸隠の大疎開によって分院も無用になり人々も分散して小立屋になったのであろう。

立屋城址について

 立屋には立屋古城址と立屋城址があって古城址は裏表両立屋の中間の高地にあり、立屋城址はいまの城址となっている。古城址の方には立屋氏という古い豪族がいたとされ、立屋城址は元新町牧城の見張りの山城として利用されたと思われる川中島戦争の頃武田軍によって見張台が再構築されたものとされている。

 立屋氏が文書に証明されるのは、結城攻めの陣番帳永享十二年(一四四〇)に、立屋殿とあることであり、その後芋井の葛山守備衆の中に、更に芋井に立屋氏館跡があり、武田の知行書、上杉家の重臣直江兼続の要請状また上杉家の寛文分限帳等にも見える。
 ここで立屋氏の考察をしたい。元禄年間に松代藩に出した昔の記録には「立屋城は小川左衛門家老の城なり」と書かれており、小川氏は南北朝の末期、元中九年(一三九二)三河の刈谷城から追放されて信州に入ったと言われ、小川氏三代七十八年といわれている。また、この小川氏は後に村上氏に反し、村上氏は香坂氏に命じ、香坂氏は大日方氏をして、天文五年(一五三六)小川氏を追放したとされるが、そうだとすると小川氏の在城は百四十四年になる。この頃大日方文書や村上文書引合せると小川氏が追放されたのは、どうも永正二年(一五〇五)が正しいともいっている。この永正二年としても在城期間は百十三年となる。」小川氏の額塚遺跡には、妙光禅尼応永二年の碑があること、また刈谷の調査からも入城の年代はほぼ正しいようである。
これは小川氏は重房、重清父子を信濃に追放したとされることから重房、重清、貞綱、綱義、貞宗の五代で百十三年でなかったのかと考えられる。

立屋氏についても不明な点が多いが、立屋氏は小川左衛門家老の城というからには何等かのつながりあったものと思う。故松沢一夫氏によると立屋氏は椿峯城の椿四郎、戸谷城の春日氏とも深い何等かの関係があったと思われる。といっていることからも、追放された小川氏を立屋氏は隠し、小川左衛門三代としたようにも考えられる。永享十二年(一四四〇)は小川氏が健在の武
士なれば来郷五十八年目のこと、小川氏が陣番帳にその名を連ねるべきに立屋氏がでている。

 小川氏は同じ南朝方の仁科氏を頼って入信したというが、実の立役者は立屋氏であったのではないかと思う。また小川氏の立場からも重房、重清は流罪のため身を隠し三代目の左衛門貞綱から城主として数えられたのではないかと思う。この小川氏は古山落城によって三河の刈谷に帰り無実となり、後に水野氏を名乗り徳川の大物になったといわれている。どうも立屋氏は、椿氏、或は春日氏の縁類の匂いが高いように思われる。

 さて立屋氏は、古山城が大日方氏に落ちて天文二十一年(一五五二)頃、武田氏の手が廻る間の四十七年、半農の小豪族となって大日方氏に太刀打ちできるような存在でなく大日方氏も古山城に在って椿氏や中牧氏を落とし鬼無里方面、美麻方面と土尻川以北を固め、立屋は香坂氏の支配下にあったように思う。

 武田軍は、松本安曇に手を伸ばし糸魚川をめざし、佐久から村上氏を抜き野尻方面に、また芋井から上野、香坂から大日方氏をぬき鬼無里、戸隠へと北信攻めにあの手この手の計画をねっていたことが伺われる。天文二十一年頃、立屋城にきたのは馬場美濃守の手の者であるが香坂氏も従ったので香坂氏の手勢も加わったものと思われる。立屋氏はそれであるから無条件にこれに従い、武田軍はいまの城址に武田式の三ヶ月堀、馬場、舎屋等を整備した。城将には小池豊後守がいた。この古池という武将は香坂の武将であったと思われる。大日方氏が武田に従ったことによって立屋城も大日方氏は部下の村越主膳を立屋城においた。

古池氏は大町市に追われたと言われているが大町市に資料を見出すことができない。思うに古池氏は香坂の武将で武田軍に従い立屋の城将となったか或はそれ以前から長く居たと思われるが、間もなく香坂氏は上杉に通じたということで殺されていることから古池氏は身の危険を感じ、大町の山中に追放、或は逃亡したのではないかと思う。

 さて立屋氏は、村越氏立屋城入城と共に武田軍に従い次の目的地弘治三年(一五五七)の葛山城攻撃に参戦、上野方面各所に転戦したが葛山落城後芋井に止まり葛山城守備衆に加わり元亀元年(一五七〇)には次のような戦功によって知行を得て居宅を構えている。

     新 知 行
 
   一、入山の内     弐百貫文
   一、北郷の内     六拾弐貫文

従 最前 参 御幕下 条  忠節無 比類 候
 二  一 ニ   一      ニ  一
 
因 茲如 比被 宛行 候  依 戦功 可 有 加恩 之旨。
 レ  レ  二  一    ニ  一  レ ニ  一

被 仰出 者也 仍如 件
 二  一     レ 

元亀元年   跡部大炊助

立屋勘解由佐エ門殿

 忠節比類なく戦功に依って等と大変な知行状を頂いたものであるが、葛山には落合の一族も残ったことから特に立屋を取り上げて牽制をしたのではないかとも考えられる。立屋一族には勘解由左衛門、彦四郎、喜兵衛、和泉、舎人等の名がみられる。そして立屋氏は芋井地区に旧領地を有した豪族ではないようである。

 天正十年(一五八三)武田氏滅亡により状況は大きく変わった。上杉氏が北信濃に進出し、織田信長の森氏統括となり、間もなく織田氏が本能寺に亡びて豊臣、徳川と大変混乱時代を迎えた。

立屋氏はその頃、一部立岩とも名乗るようになり、今立屋だ立岩だという論議もあるようであるが、これは同じもので、芋井の居館のそばには郷路山という大きな岩山があり、これ等によって立岩ともいったと思う。またその頃の混乱から身の素性を隠した生残り策かも知れない。さてその頃、上杉家の重臣直江兼続の要請によって立屋氏は越後各所に勤務し、立屋喜兵衛は郡奉行や金山奉行等の要職に就いた上杉家の移転にも従い分限帳にも立屋氏は見える。

 立屋に於ける立屋氏の文献もなく、立屋城址に対する文献もない。立屋の伝承と武田、上杉頃の文献その他の資料と照合して私の考察に過ぎないことを了承されたい。

 いまの立屋城址には近年まで大きな松林があったが落雷等もあって切りつくされ大きな切り株が残っていたが、戦時中松根油を取るため堀り取られてしまった。いつごろできたのか本丸には、秋葉神社と鹿島神社を合祀する立屋の古い宮があり、三反と五反の二組の幟を立て春秋の祭りが行われ、時には草競馬や草角力もあり露天商がでて盛会であった。この社も明治になって小川神社に合祀となり、裏表の神楽二頭を奉納し拝殿で御神酒を戴くだけになり、また今は権現様(宝光院)の祭りと合わせ御神酒を戴き、往時を忍ぶようになった。

 立屋城は、本丸には八間×十間の城閣があったといわれ、三ヶ月堀、堀尻、空堀、馬場隠れ穴、旗塚、陣平等の地名が残されている。城址からは、長野の花火がよく見えるし、浅間、菅平、聖、飛騨、戸隠、飯縄、黒姫と四方の眺望絶可で、古山城址、馬曲、真那板の各城址を眼下に収めている。旗塚は私の先祖勝弥が分家してきたとき、気味が悪い塚だというので掘ってみたが何もなかったということで、塚の上に梨の木を植えて塚無しといったという。隠し穴は南斜面から西北に深く掘られ蝙蝠の巣になっていて、これも気味悪いというので粗朶をかぶせて土を掛けた。いまもその位置は分かるが、穴はふさがれている。陣平には陣平の一本松といって大きな一本の松の木があったが戦時中切られてしまった。(故村越敏明氏所有)

 城の西方道路の分かれる所に、南無阿弥陀仏享保九年十月の碑があり故鎌倉六衛氏は右善光寺、左糸魚川と書いてあったという。地元の古老は城の仕事場に鎮魂のため後に建てたものだといったことがある。字が風化して、どちらが本当かわからないが、信玄は信賞必罰の武将であるから首を打たれた人もあろうか。字城の平には昔池平の土地があったと古老から聞いたことがある。池平のオイ(村越健一郎氏)があり、和手蕨平(村越正孝氏)、和手上立屋(村越守二氏)がある村越守二氏の一族の墓は、丸い古墳状の上にある。長い年代分家したり廃家したり、分からないことが多いが立屋の村越は廃城と共に土着した村越主膳の後裔であろうか。立屋には今も字古城平と字城の平が名残を止めている。

戸隠の疎開と立屋について

 戸隠山顕光寺流記によると、信濃の国顕光寺は迦葉仏説法の霊窟、鎮護国家の宿場なり。後、学問行者仁明天皇の嘉祥三年三月飯縄山に登り金剛杵を投げて、その杵一百余町を経て宝窟に至り光を放つ。漁師杵光を尋ねて行きこの宝窟に住し観音釈迦地蔵となれり。その夜南方より臭き風蒸吹きて、九頭一尾の大龍来たりて曰く・・・・。金剛杵光を顕すにより顕光寺と号す。ここを本院と号すと顕光院は戸隠の本宮、本院であると書いている。そして二百年を経て後、冷泉院の康平元年宝光院ができ、その後三十年後堀河院の寛治元年両院の中間に中院ができたと書いている。
長禄二年に法林房定興(七十三歳)が書いたとされている。年表にすると、
 
 嘉祥二年 (八四九) 学問行者開く
 康保年中      釈長明火定にはいる
 康平元年 (一、〇五八)宝光院ができる
 寛治元年 (一、〇八七)中院ができる
 貞応元年 (一、二二二)奥院の仁王堂ができる
 貞応三年 (一、二二四)仁王堂ができる
 建長三年 (一、二五一)三院大衆離山中条に居住
 文永七年 (一、二七〇)宝光院大衆離山霊山寺に住す
 永仁七年 (一、二九九)教釈房善豪小河庄日林寺で大般経を写す
 弘治三年 (一、五五七)二月信玄に攻められた越後に走り六月帰山
 永禄二年 (一、五五九)越軍に攻められ鬼無里、小河におもむく
 永禄七年 (一、五六四)小河の筏に住す
 文禄三年 (一、五九四)神殿仏宇を造り小河より帰山
 元禄十二年(一、六九九)坊号を廃し院号を賜う
 慶応四年 (一、八六八)神社号となる

戸隠の開山は古くいろいろな伝説や盛衰もあったが中でも永禄七年の小川の疎開は三十年の長きに亘り一時間僧兵三千人ともいわれた戸隠修験の霊場にとって一番困難な時代であった。さて、なぜ鬼無里では駄目で小川まで逃げたかであるが、その背景として次のような事情が考えられる。

一、謙信の追及が殊の外厳しかったこと
一、信玄の配下で協力的な大日方がいること、更にその出城立屋城があること
  香坂は亡び武田の香坂弾正となったこと、萩野城主も飯縄に転出したこと
一、立屋には戸隠分院もあったこと、即ち古い縁古地であること
一、食糧があったこと(粟、稗、蕎麦、大小豆等雑穀)麻もあった
一、馬の通れる道路があったこと

即ち安住の地を求めて祇󠄀乗坊眞祐は神霊を護持して七十余名と共に決死の逃避をし、裾花川を渡り土尻川を渡って立屋まで追われてきたのである。この案内約をしたのが立屋の和田斧右ェ門であったという。斧右ェ門の家は廃屋となり屋敷跡を残すのみとなった。和田朋喜氏の本屋で当時の戸隠に対する文書の多くが保存されていた。庭にねこを敷いて毎年虫干しをしたと立屋の古老は話していたが、この家が火災にあってその重要な文献を全焼してしまった。その頃の斧右ェ門の家は老婆の一人暮らしとなっていたという。
一行が落ち着いた場所は立屋の宝光院(権現様)のある所である。この地は村越主膳の守る立屋城に近くいまも坊場、花園という字が名残を留めているが、字岩下という岩に囲まれた凹地で西方に深い渓流があり水の便にも恵まれた好住地である。坊場には勿論坊の舎屋が建てられ、花園は一山の墓所があった所で、いまは畑になっているがそこからは人の骨が出たと故小林源一郎氏等話していた。

 斧右ェ門は邑役であると同じにその昔から戸隠分院があったという縁故の人物でもあり七十余人といわれる大人数の衣食住に大変奔走をしたのであろう。その後帰山も思うにまかせず塩沢の筏に中院、栗尾に奥院を配置して戸隠一山の様式を整えるに当たっても、地域住民の交渉やら古山城関係の支援やら一代をかけた大事業であったに相違ない。斧右ェ門の家に保管された当時の戸隠記録が焼失されたことは惜しい限りである。帰山した文禄三年は、武田氏も亡び上杉家は戸隠の仏閣仏宇を修復して要請したので一山帰山したのである。

 立屋では宝光院跡に小宮を建てて毎年お祭りをして宝光院とはいわず、今も権現様の祭りといっている。権現様の祭りには毎年雨の降ることが多い。雨乞いの神様だからであろうか。立屋には前述の顕光院跡があること、種ケ池があること、經塚があること、戸隠権現があり坊城、花園、岩下、堀切等現在の字名があること、祇󠄀乗坊一行を案内したといわれる。和田斧右ェ門のあること等を記して、各位の研究に資したい。

立屋の一本杉について

 裏立屋の天白様の小宮の処に立屋の一本杉という巨大な杉の木があった。この木陰は冬荻之久保の衆が池端で麻はぎをするのに日影になって麻が凍って困ったという。故宮川修氏の話だとそれは大きいもので、子どもの頃帯を結び合わせて廻したが十六本結んでようやく一回りしたと話した。子どもの帯を結んで一本三尺としても四十八尺、直径は十六尺もあったことになる。十六尺といえば二間半より大きい。話し半分としても直径一間半もあったろうか。冬の短い横日が南の丘にそんな大木があったら確かに迷惑したことであろう。そんなわけで城平の勝弥爺さんが切ったが、切り株の上に筵を何枚も敷いて子どもがあそんだという。今この木を知る人はもう一人もいない。

堂の坂の落馬さわぎについて

 堂の坂というのは、裏立屋の集合所の下水道である。昔は集合場所の処に上村の薬剤師があり、下村の中尾の薬剤師と対峙していた。馬に乗ってこの坂路に係ると馬が立ち上がって何人もの人が振り落とされたという。これは、上のお堂と下堂の薬師様が互いに睨み合っているためだろうということになり上のお堂を蕨平の上の今の見えない場所に移して安置したので、それ以来馬から落ちる人は無くなったという。昔はお薬師様もご利益が強かったようである。

天龍海について

 天龍海は寛文年間から元禄半ばにかけて表立屋のお堂に小屋を建て住した山伏形の業者で生きながら土中に入り竹を立てて水をのみ鐘を打ちながら往生したと伝えられている。彼が遺品としては天龍海の鉾と衣の一部がお堂に残されている。お堂の下に行地という水溜があり又、墓は直径十二米の盛土になっている。その廻りが吉沢三家の墓になって墓掃除のため大部削られ元はもっと大きかったように思う。墓の上には歿後植えられたという杉の巨木が立っている。根元の廻りは四米六十、二又になっている。この墓の入口に丸塔が二基あり字はわからないが、鉾などから思うに山先達三正坊他一名は天龍海の弟子で行を引き継ぎ天龍海の眠る側に静かに葬られたことであろう。もう三百年も昔のことである。
 こんな無駄話をしていたら限りもない。昔の人がそれぞれの時代にそれぞれに精一杯生きて、生き次いできたことは頼もしいことである。
 ここに立屋氏への最後の足掛かりとして拙い詩碑を残し、皆様の研究を待ちたいと思う。

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