長野県小川村の立屋地区の歴史、遺跡および伝統文化をまとめたホームページです。

筏ヶ峰戸隠三院跡

筏ヶ峰戸隠三院跡

種別 村指定・史跡(昭和六年九月県指定になったが、その後解除されて今日に至っている)
指定 昭和36年9月1日
所在地 小川村大字小根山字本院

由来

戸隠三院跡
 戦国の代、諸雄が領土を経略するに当って、其の地方に勢力の有った社寺の向背は、頗る之を重視したものである。したがって、懐柔又は威圧の手段を使って、味方にすることに努めた。

 天文・弘治・永禄の頃、武田・上杉二氏が北信濃で雄を争った時、この地方の勢力のあった社寺は、甲越勢力の消長によって左右された。その中で、勢力においても、位置においても、その向背が、甲越両雄の活動に、大きな関係のある戸隠は、たびたびの厄難にあった。

 戸隠三院は、元来越後の味方であった。弘治3年2月、武田軍は、越後方の葛山(かつらやま)城(上水内郡芋井村)を奪取し、更に進んで戸隠山を侵したので、三院の衆徒は越後に避難した。同年春上杉謙信が信濃に出馬し、越後方の勢力が回復したので、また三院の衆徒はその年の六月越後から戸隠に還住した。ところが永禄元年になると、戸隠三院は武田方に傾いたので、武田信玄は中院に祈願状を奉納して、信濃一国を掌握するよう祈願した。この事は越後方にとっては由々しいことであって捨ておく訳にならないので、永禄二年六月兵を出して、戸隠山を侵攻した。顕光寺歴代譜に

  永禄2年6月19日夜、越後国冦復至、三院衆徒、住居鬼無里、小川とあって、この時三院の衆徒は、敵することができなくて、鬼無里や小川の山中へ一時逃避したのである。
 その後、信玄がだんだんと勢を北信へ伸したので、戸隠衆は戸隠へ帰山することができたのであるが、永禄七年になると上杉謙信は、武田の侵略が信越国境にまで及んだのを見て、その年の八月信濃へ兵を出した。その時戸隠三院は越後方の侵掠を恐れて、奥院袛乗坊真祐は、戸隠霊場が争乱の厄難を被って、神への奉仕の断絶を憂えて、奥院に灯明番のみを残して同志七十余人と共に、当時武田方の信濃衆中で頗る勢力のあった大日方氏の庇護を受けられる筏が峰に地形を択んで、戸隠山の様式を悉くまねて、三院を勧請して奉仕した。そして小川筏が峰に小戸隠ができたのである。戸隠山大権現縁紀に

  同永禄7年猛秋中旬袛乗坊真祐大越家の位として、70余人の新客を引入れて、筏が峰の地に移り彼山にて、当社の報恩謝徳のために、天下静ひつを祈りて、我山の法式を写して入峰潅項を修業せりとあるが是である。
 その後甲越の両雄も亡び、後に上杉景勝が北信濃を領有するようになり、文禄三年、戸隠の荒廃を憂え、三院を復元造営して、三院の衆徒は帰山した。その間実に30余年である。

 帰山する時筏が峰に灯明番三戸を残したと伝えられる。(長野県史蹟名勝天然記念物調査報告代十一輯より調査委員藤沢直枝)

現状

奥の院

奥の院

 字本院の高台(標高806メートル)にあり、遙かに戸隠山に相対しよく戸隠神社を望むことができる。
参道は村道塩沢線から石段を昇り、さらに200メートルほどきわめて急な坂道を昇ると境内につく。その平地は約百坪余あり奥の方に長さ二間巾一間程の矩形に積まれた石垣壇の上に南面した木造の祠が奉安されている。

境内には松、杉をはじめ桜、ヒマラヤシーダー、ドイツトーヒ、等の神木が植えられてある。前方の盆地に袛乗坊跡、念仏ヶ池、後方には種が池があり、逆さ川といったのは今の栗尾沢の原流のことである。
奥の院

中院

 字中院にあり約30坪の神域に杉の木にかこまれて石の祠が安置されている。境内には明治41年神社合併の際伐採された三本杉の大きな伐り株があり、そのあとに最近小さな三本杉が植えられている。100メートルほど前方には樹齢200年余を思わせる日の御子桜の老木が昔を偲ばせ、右方には浄光坊跡、羽狩場、水屋林等の旧跡があり、左方の高台を槌堂という。

宝光院

 字棒城の小さな丘の上にあり、境内には松、杉、その他雑木にかこまれたなだらかな平地の気持ちよい神域で祠は素朴な小さい木造である。
 南方の参道に伝説のある比丘尼石、その上方に朝日の弦尾(乙妻)「標高830メートル、筏ヶ峯最高峯」阿弥陀峯(高妻)等の諸峯がそびえている。
仁王堂跡、表大門 女坂等の旧跡は県道長野大町線の現在西山農協本所前から八幡宮参道を経て立屋城趾に昇る参道にある。
飯綱山、馬場、鍋山(丸山)は字上筏にあり、丸山附近からは縄文土器が出る。
万人塚 昭和40年10月開山四百年を記念して戸隠山公明院姫野公明師の垂示によってこの塚を建設し以後毎年慰霊祭を行なっている。また同47年10月にはその公明師の頌徳慰霊の碑も建てられた。

「史蹟名勝天然記念物調査報告」によると現在の参院祠は見る影もない程のものであるがその境内であった地域や社殿の建てられた地積がなかなか広いところから察すると文禄三年以前の杜は頗る大きく其附近には僧坊立ちならび随って崇敬登山者も多く筏ヶ峯一帯はなかなか賑ったことと思われる。尚この三院旧跡は甲越相争当時の重要な史蹟であるは勿論有名な戸隠神社の歴史からも貴重なものであり信仰考察資料としてもまた大切なものである。
 故に現在の杜祠を大きく造営してこの大切な史蹟を永く保存し同時に敬神思想を涵養する要ありと思う、と記されている。
 また往年の宿願であるアルプス展望有料道路の実現と相俟って筏ヶ原一帯の観光開発と旧跡の立派な復元保存を期待して止まない。

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